1990 - 1991 栄光の代償 / ツアーに疲れ果てたバンドはバラバラに… 
 1990年2月。455日間で37カ国を回り、実に232公演にも及んだ過酷なツアーはようやく幕を閉じます。16ヶ月にも及ぶツアーを終えた頃には NEW JERSEYは全米800万枚のセールスを記録していましたが、栄光の代償はあまりに大きく、身体的に、精神的に、疲れ果てたバンドはこれからのバンド活 動も不明なまま各々の帰路へと着きました。そして、バンドとしての活動休止を宣言し、以降はソロ活動に専念することを発表しました。「一緒にいる時間が長 すぎた」バンドは解散の危機を迎えていたのです。

 バンド1のワーカホリックだったJonは8月にはソロアルバムBLAZE OF GLORYをリリース。このアルバムは友人Emilio Estevez主演の映画「YOUNG GUN2」の主題歌Blaze Of Gloryを収録しており、その他の作品もこの映画からインスパイアされたものとなっています。Blaze Of Gloryは全米No.1を獲得し、セールスも500万枚の大ヒットを記録しました。また、同曲は翌年ゴールデングローブ賞、アメリカン・ミュージック・ アウォーズ「最優秀ポップ/ロック・シングル」を獲得。アカデミー賞にもノミネートされました。

 そして、12月にはカウントダウンコンサートに参加するためバンドとして来日。年明けには日本公演を行います。再び顔を合わせたメンバー。当時は 「Jonはソロで成功したから、バンドは解散してソロで活動していこうと思っている」「Richieはソロに専念するためメンバーから脱退する」などとい う噂が飛び交っており、ファンも「BON JOVIは解散してしまうのだろうか」という不安を抱いていましたが、そんな中で行われた年明けの来日公演は、結果と してバンドの絆を再確認させた、非常に意義ある公演となりました。

 その後、Jonはそれまでバンドを管理してきたビ ジネスアドバイザーとエージェンシーを解雇し、新たにバンド管理の責任・指揮を担うためのBON JOVI MANAGEMENTを設立しました。

 1991年9月には、Jonの良きbrotherであり、黄金タッグを組んでいたRichieがソロアルバムSTRANGER IN THIS TOWNをリリース。ツアーにはDavid、Ticoも参加しましたが、Jonがバンド活動再開を望んだために全米ツアーはわずか11日で終了。 12月に ニュージャージー州にてチャリティ・コンサートを行い、メンバーは来日以降実に11ヶ月ぶりに再会したのでした。

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1992 - 1993 危機を乗り越えバンド活動再開
  1992年、年明けからバンドはいよいよニューアルバムの制作に取り掛かります。プロデューサーは、前作、前々作でエンジニアを務めていたBob Rock。レコーディング場所はカナダ、バンクーバー。そして、待ちに待ったバンドの新作KEEP THE FAITHは同年11月にリリースされます。解散の危機を乗り越えた彼らの新作は、それまでの若さ溢れるロックとは異なり、「信念を貫け」という メッセー ジを 前面に押し出した、社会性を含んだアルバムとなりました。

 しかし、バンドが活動を休止していた間、ミュージックシーンは明らかに変化していました。グランジが勢力を増し、ハードロックバンドやメタルバンドは居 場所を失いつつあったのです。それでも4年ぶりのアルバムは全米初登場5位を記録し、ダブルプラチナムを獲得するなど、「BON JOVIここにあり」を強くアピールしました。ですが、音楽市場のニーズの変化や、4年間のブランクはやはり大きく、アメリカでは以前と変わらずにBON JOVIが受け入れられたわけではないことも事実です。そのため、1990年代は全米での活動よりも、ヨーロッパや日本、あるいはそれまでツアーで回らな かった国々での活動の方に力を入れ始め、特にヨーロッパでは今後の根強い支持基盤を作ることに成功しています。

 KEEP〜発売後、バンドはプロモーションツアーを行い、ヨーロッパやアジアをプロモーションで回ります。もちろん日本 へも。そして1993年3月から全米ツアー開始。ボロボロになった前回ツアーの反省を受け、ツアー日程はそれまでと比べ明らかに短いものとなりました。そ の後ヨーロッパを回り、6月にはツアー来日。この時Jonの第1子誕生に伴い、初日の日程を変更するというハプニングも。日本ではそれほどにグランジの影 響がなかったためか、BON JOVIの人気は変わらず高く、全公演がソールドアウトし、日本のファンの変わらぬ姿にバンドは非常に感銘を受けたそうです。

 そして、延べ182公演でKEEP THE FAITHに伴うツアーは幕を閉じました。
 
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1994 - 1996 初ベストアルバムを発売
  1994年、春、バンドはすでにデモ12曲を完成させます。着々とニューアルバムの準備が進んでいるかと思いきや、これを取りやめ、ベストアルバムを制作 することに。バンド初のベストアルバムCROSS ROADは10月にリリースされました。過去の名曲をずらりと並べ、さらに新曲を2曲含んだこのベストアルバムは全世界で大ヒットを記録。セール スは発売 後わずか数ヶ月で1,000万枚を超え、日本でも80万枚売り上げています。中でも新曲Alwaysはシングルカットされると、全米でも久々に TOP10 入りし(5位)、全世界で300万枚を売り上げました。同日にはDavidの初ソロアルバムON A FULL MOON...も発売されました。

 また、同年5月にはJonとRichieが「21世紀へ音楽遺産を継承する」AONIYOSHIイベント出演のために来日しています(他、X- JAPANなども出演)。そして、12月は恒例となったチャリティ・コンサートをアメリカの5つの会場(モントリオール、マサチューセッツ、ペンシルヴェ ニア、ジョージ ア、ニュージャージー)で行いました。

 順風満帆に思えた1994年でしたが、衝撃的なニュースもありました。BON JOVI結成当時からのメンバーだった、Alecが突然バンド脱退の意向を表明したのです。メンバーはAlecを引きとめようとしましたが、最終的には彼 の意思を尊重することとなりました。以降は正式なベースプレイヤーを迎え入れるのではなく、旧友のHugh McDonaldを助っ人として呼び、CROSS ROADに伴うツアーからBON JOVIのベースはHughが務めることに。
  
 1995年に入り、ニューアルバムのレコーディングを続けていたバンド。そして、6月、KEEP〜から約2年半、CROSS ROADからは1年足らずでTHESE DAYSが発売されます。発売に 先駆けて、5月に来日公演。これが功を奏してか、THESE DAYSはオリコン初登場1位を記録しました。来日公演後は、ヨーロッパ、南米、南アフリカをツアーで訪問。中でも特筆すべきはロンドンで行われた3日 間連続のウェンブリースタジアム(7万人収容)公演。全日程ソールドアウトを記録し、わずか3日間で21万人を動員という快挙を成し遂げています。また、 こ の様子をビデオに収録したLIVE FROM LONDONはグラミー賞にもノミネートされるなど、ライヴバンドとしての力を十二分に見せ付ける結果となりました。

 1996年は、BON JOVIとしての活動は5月から始まりました。オフの期間中、Jonは初主演映画「The Leading Man」(邦題「妻の恋人、夫の愛人」)の撮影を行っています。5月の日本公演を皮切りに7月中旬までツアーを続け、バンドは活動休止し長いオフ期間に入 り ますが、バンド解散はないと完全否定をしています。THESE DAYSツアーは95年から96年へ年をまたいで、42カ国72公演で終了。公演数は一段と少なくなりましたが、それはバンドが過去の失敗 を繰り返さないように、そして、1つ1つのショウを楽しめるようにという配慮からで、代わりに多くの公演がドームやスタジアム規模の会場で行われていま す。

 ツアー終了後は、まずJonは俳優業を続けながらソロアルバムの制作に取り掛かります。また、この年Jonの初出演映画「ムーンライト&ヴァ レンチノ」が日本で10月公開されています。Ticoは芸術家としてのキャリアもスタートさせました。

1997 - 1999 充実したソロ活動
 1997年、2月、Jonは映画「No Looking Back」の撮影を開始し、それと並行してソロアルバムをレコーディングし、6月に自身2作目のソロアルバムDESTINATION ANYWHEREをリリース。7月には1度だけ来日公演も行っています。その後は各国をツアーで訪れました。

 一方、Richieも2作目のソロアルバム制作に取り掛かり、12月にUNDISCOVERED SOULを発売。その他、自身もBON JOVIファンだと言う俳優反町隆史のためにFoeverを提供し(コーラスにも参加)、日本でのシングルヒットも記録しています(ドラマ「ビーチ・ボー イズ」主題歌、またRichieのHard Time Comes Easyも同ドラマ内で使用される)。

 Davidもまた他のメンバーと同じく2枚目となるソロアルバム制作を計画していました。しかし、7月、日曜大工作業中に誤ってチェーンソーで指を切断 しかける大怪我を負い、以降は治療とリハビリに専念せざるを得ず、残念ながらオフ期間中の実現はならず。(1年間治療し、次の1年間をリハビリ に費やす)

 1998年に入ると、Jonはより俳優業に精を出し、Richieはソロアルバムのツアーを開始。6月には来日公演も果たしています。そして、秋には来 年からバ ンドとしてアルバム制作を始めることを発表し、予定より早い始動となりました。1999年のバンドとしての最初の仕事は映画「エドTV」のサウンドトラッ クに提供する曲の制作から始まり、怪我のDavidを除くメンバー3人とHughが再び集いました。6月にはJon宅のスタジオにて、いよいよニューアル バムの曲作り開始。この間、JonとRichieは日本のアイドルグループJ-FRIENDS(ジャニーズの複合ユニット)のためにNext 100 Yearsを提供しています。提供Jon&Richie、対訳B'zの稲葉浩志というスペシャルなこの曲はオリコン・シングルチャート1位を記録しまし た。

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