1983 - 1985 バンド結成、そしてデビューへ
 1983年、Jon Bon JoviはおじのTonyが経営する、NYのレコーディングス タジオで働いていました。主な仕事はモップで床を掃いたり、コーヒーを用意したり…といった、まさに「雑用」。給料は週50ドル程度でしたが、AEROSMITHを初めとし様々なバンドが利用していたスタジオで、その様子を間近で見られ たという経験はJonに大きな影響を与えていたはず。AEROSMITHのSteven Tylorに招かれて、レコーディングの様子を見学させてもらうこともあったそうです。当時のJonは雑用係として働く中で、空いた時間には曲作りに励 み、夜スタジオが空になった時は自身の曲をレコーディングするといった日々を送っていました。

 そして、JonはレコーディングしたRunawayのデモテープを、自らLAやNYのラジオ局あるいはレコード会社に売り込む強行を図ります。なかなか 好感触は得られませんでしたが、当時あったNYのラジオ局WAPPのDJであるChip Hobartが興味を示し、「WAPPは地元の未契約アーティストによるアルバムを編集しており、その中にデモ曲を入れないか?」という話を持ちかけてき ました。レコード会社と契約を結ぶことを目的にしていたJonは、当初否定的でしたがこれを受け入れることに。

 RunawayはWAPPでオンエアーされると、たちまちスマッシュヒット。そして、アルバムに基づいたショウが企画されました。しかし、Jonは当時 バンドを持っておらず、生のショウで演奏を披露することはできない状況にありました。そこで、高校時代から共にバンド活動をしていたDavid Rashbaum(後改名し、David Bryanに)、
Franke & The KnockoutsのドラマーTico TorresとベースAlec John Suchを招き、ギターはDave "the snake" Savo(後のSKID ROWメンバー)でバンドを結成。そのバンドでショウを行っていたある時、一人の青年が舞台裏に訪ねてきました。「あのギタリストよりオレのほうが上手 い、オレをこのバンドに入れてくれ」と豪語する彼の名前はRichie Sambora。 Richieの人柄に感動し、また、実際に彼のプレーを聞いて驚いたJonは早速Richieを迎え入れ、ここにBON JOVIの母体となるメンバーが集まったのです。
 
 そして、ついにJon率いるバンドはMercury Recordsと契約を交わし、デビューが約束されました。1984年2月にはデビューアルバムBON JOVIをリリース。ここでもまたRunawayが収録され、デビューシン グルとなり全米TOP40入りを果たします。また、セカンドシングルはShe Don't Know Meに決定。その後はSCORPIONSのサポートアクトとして全米ツアーを行い、ヨーロッパではKISSに帯同しツアーを回り、バンドとしての活動も一 挙にワールドワイドなものに。また、ヨーロッパツアー前の5月には日本でもデビュー。「スーパー・ロック'84」で初来日公演を果たします。日本ではバン ド初のゴールドディスクも獲得。デビュー時から日本でのBON JOVIに対する評価や人気は高く、初のゴールド・ディスク取得も手伝って、この頃からすでにバンドにとって日本は特別な存在になりつつあったようです。

 1984年の12月にはツアーを終え、フィラデルフィアにて早くもセカンドアルバムの制作に取り組みます。年明けからレコーディングを始め、 1985年4月にはニューアルバム7800° FAHRENHEITをリ リース。日本では初の単独来日公演を行い、ショウはソールドアウト。日本での注目度の高さを改めて証明しました。その後はヨーロッパも回り、5月には RATTのサポートアクトとして全米ツアーを行いました。また、この間Jonは単独でFARM AIDにも出演しています。

 制作当初は、セールス面での成功を期待していたバンドでしたが、バンドは世界的にはまだまだ無名。しかし、単独公演も経験し、全米やヨーロッパをサポー トアクトとして回ってライヴバンドとしての腕を磨いたこれらの経験は、今後のブレイクへの布石となりました。また、7800°〜はアメリカで初めてゴール ドディスクを獲得しました。

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1986 - 1987 一躍スターダムに伸し上がる
 3枚目のアルバムを制作するにあたって、「次こそは!」という思いの強かったバンドは、今回初めて外部のソングライターを起用。現在もなお曲作りに関 わっているDesmond Childを新た迎え、JonとRichie、Desmondの黄金チームがここに完成。そして、プロデューサーは、バンドの曲作りに大きな影響を与える ことになったBruce Fairbairn。1986年の4月からカナダのバンクーバーでレコーディングが始まり、ノンストップでのスタジオ作業をこなしました。ニューアルバム のタイトルはWANTED DEAD OR ALIVEの予定でしたが、レコード会社に却下され、ストリップショーからヒントを得て、最終的にSLIPPERY WHEN WETに決定し、8月にリリースされました。

 SLIPPERY〜からの第一弾シングルは You Give Love A Bad Name。全編ライヴ映像で、バンドが楽しそうに歌い演奏するプロモーションビデオが、当時のミュージックシーンに多大な影響力を誇っていたMTVで放映 されると、これが見事にはまり、You Give Love A Bad Nameはバンド史上初めての全米No.1を獲得(4週連続)。全世界でも旋風を巻き起こし、延べ16カ国でNo.1を取得するにいたりました。

 8月末にはドイツのMONSTERS OF ROCKに出演。10月からは38 SPECIALのサポートアクトとして全米を回っていましたが、その期間中にSLIPPERY〜は全米1位を獲得し、ハードロックバンドとしてはLED ZEPPELINの連続首位記録を更新して、8週連続首位の新記録を樹立。本編の38 SPECIAL以上に前座のBON JOVIを待ち望む声が大きくなり、これが最後のサポートアクトとしてのツアーとなりました。そして、12月には、今度はCINDERELLA(1985 年にJonがクラブハウスで発見し、デビュー後押し)を前座に据えて全米ツアーを行います。シングルも、You Give〜以外に、Livin' On A Prayer(1位)、Wanted Dead Or Alive(7位)などヒットを連発。1986年、BON JOVIは一躍スターダムに伸し上がりました。

 1987年は年明けからライヴ活動に精を出し、10月までワールドツアーを行います。もちろんソールドアウト続出。9月には日本で怒涛の武道館5日間連 続公演を行い、全席ソールドアウトという偉業を成し遂げました。ツアーが終了する頃にはSLIPPERY〜は全世界で1,800万枚を売り上げていまし た。

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1988 - 1989 止まることを知らないBON JOVI旋風
 1988年に入るとバンドは早速曲作りを開始。大成功を収めた前作の手法を踏襲し、曲作りは同じチームで行われ、レコーディングは5月から前作と同じく バンクーバーで始まりました。前作が空前のセールスを記録しただけに、単なる「一発屋」ではないことを証明しなければならないというプレッシャーはやはり 大きく、Jonは何かに取り憑かれたかのように曲作りをしていたと言います。

 当初は年末に予定されていた4枚目のアルバム は、予想外の早さでレコーディングを終え、9月にリリースされることに。アルバム発表記者会見は8月18日に衛星中継されるなど、全世界がBON JOVIのニューアルバム、NEW JERSEYに多大な関心を寄せていまし た。リリース前の「前作を超えられるか」「ヒットはまぐれではなかったことを証明できるか」というバンドの不安は杞憂に終わり、より円熟味を増したアルバ ムはたちまち全米No.1を記録したのでした(4週連続)。アルバムだけではなく、シングルも軒並み大ヒット。 Bad Medicine、I'll Be There For Youは1位を獲得し、Bone To Be My Babyは3位、Living In Sinは4位を記録しました。当時もMTVと縁の深かったバンドでしたが、Living In Sinのプロモーションビデオの淫らな描写は物議を醸し、再編集せざるを得なかったという話も。また、MTV関連では、この年のMTVビデオ・ミュージッ ク・アウォードで、JonとRichieはアコースティックギターのみでWanted Dead Or AliveとLivin' On A Prayerを演奏。こちらは好評を博し、後のMTVアンプラグド(現在も続いている)のきっかけとなりました。

 また、この年日本ではSANYO(コピー「BON JOVIは早くおうちに帰りたい」)とAXIA(コピー「まるでBON JOVI」)のCMに出演し、お茶の間レベルにまで長髪のロックバンドが進出しました。

 ワールドツアーの方はリリース直後の10月 より始動。12月にはRATTらと共に、日本でカウントダウンコンサート「ヒート・ビート・ライヴ'89」に出演し、年明けには日本公演も行っています。 1989年は1月に南米、2月からはSKID ROWを従えて全米を回り、ツアーは休みなく続きました。また、全米ツアー中の4月にはJonはDorotheaとラスベガスで結婚(ドライブスルーで結 婚式を挙げられる有名な教会で、酔った勢いで結婚したと言う)。6月には地元ニュージャージー州のジャイアンツスタジアムでライヴ。そして、8月にはモス クワで行われたMOSCOW MUSIC PEACE FESTIVALに出演するため、当時社会主義国家であった旧ソ連へと乗り込みます。「学校ではソ連は敵だと教わっていた」(David)というアメリカ 人の彼らにとってはもちろん、世界的に見ても異例のフェスティバルでした。その後10月には、「バンド審査員」のためにわずか30時間の来日を果たしま す。その事実からもわかるように、BON JOVIとしての活動は休みなく続けられた1989年。しかし、それは1990年に入ってもなお休息を与えられることはなく続けられたのでした…。

HISTORY
 ≫ 1983 - 1989
 ≫ 1990 - 1999
 ≫ 2000 -
MEMBERS
 ≫ Jon Bon Jovi
 ≫ Richie Sambora
 ≫ David Bryan
 ≫ Tico Torres
 ≫ Bass Player